红(2)

来源:互联网 发布:打印一体机知乎 编辑:程序博客网 时间:2024/06/09 17:35

   第二章 ひとつ屋根の下


 早朝の教室が、真九郎《しんくろう》は好きだった。
 ほとんど人気《ひとけ》のない下駄《げた》箱や廊下を通り、辿《たど》り着く先にある静かな空間。真新しい空気で満たされているような気さえする清浄感を味わうため、真九郎はいつもかなり早い時間に登校していた。部活の朝練に参加する生徒に混じるようにして校門を通っているのだが、教室に一番乗りであったことはない。真九郎が教室の扉を開くと、そこには電気もつけずに席に座る一人の女子生徒が、必ずいるのだ。
 今朝もやはり、星領《せいりょう》学園一年一組の教室には彼女が一番先に来ていて、やはり電気もつけずに席についていた。彼女の指がノートパソコンのキーを叩《たた》く音だけが、静かで薄暗い教室内に響いている。
 真九郎は電気をつけ、自分の席に鞄《かばん》を置いてから、彼女に声をかけた。
「おはよう」
 聞こえてはいるのだろうが、彼女はノートパソコンの画面から顔を上げることもなく、指先はキーを叩き続ける。彼女のメガネには画面が反射して映り、それが真九郎への無関心を強調しているように思えた。
 相変わらずの無愛想《ぶあいそう》な態度に苦笑しつつ、真九郎は彼女の前の席に腰を下ろす。そこでようやく、彼女は手を止め、顔を上げた。
「何?」
 度の強いメガネの奥にある瞳《ひとみ》が、睨《にら》みつけるようにして真九郎を見る。別に何か怒っているわけではなく、ただ近眼ゆえのことである。相手が誰でも、彼女はこういう目つきで見る。もう十年以上も前から彼女を知る真九郎は慣れているが、初対面の者なら、自分の何が彼女を不愉快《ふゆかい》にさせているのか不安になることだろう。
 彼女の名は、村上《むらかみ》銀子《ぎんこ》。真九郎とは幼稚園から高校まで同じという腐れ縁《えん》の仲で、いわゆる幼《おさな》なじみだ。
 菓子パンの詰まったコンビニのビニール袋を、真九郎は銀子に渡す。来る途中に買ったもので、菓子パンばかりなのは銀子の好み。彼女はさも当然のようにそれを受け取り、好物のアンパンを一つ取り出して包みを破った。
「話があるなら、早く言って」
「昨日の件の報告」
 真九郎は、昨日のストーカーの件の顛末《てんまつ》を銀子に話す。彼女から経由して来た依頼なので、一応気を遣《つか》ったのだ。銀子は再び画面に視線を落としていたが、真九郎の話は聞いているようだった。ノートパソコンは学校の備品ではなく、銀子の私物。校則で特に禁じられているわけではないが、学校に持ってくる私物の範囲を超えているということで、以前は何度となく教師から注意を受けていた。しかし銀子はそれに耳を貸さず、なし崩《くず》し的に許される形になったのが現状。その裏に何か取引があったらしいのだが、真九郎も詳《くわ》しくは知らない。そんな彼女は、クラスでは変人で通っている。話しかけてもろくに返事もしない、まったく協調性のない女子生徒。暇《ひま》さえあればノートパソコンをいじっている暗い女。一度そういう評判が広まると、以後は、ほとんど誰も彼女と接触しなくなった。緩《ゆる》やかな排除。
 変人に関《かか》わる気はない、ということだ。そういう人間に関わって事件に発展した例など、今の世の中いくらでもあるからだろう。
 幼なじみの真九郎からすれぽ、村上銀子ほどまともな人間は滅多《めった》にいないと思うのだが。「バッカじゃないの、あんた」
 真九郎の話を聞き終えた銀子は開口《かいこう》一番《いちばん》、そう言った。
「なに中途半端なことしてんのよ、情けない」
 料金を半額に負けたその判断に、銀子はいたく不満があるらしい。
「払うものは払い、貰《もら》うものは貰う。それがプロでしょうに」
「いや、でも……」
「女が話してるときは黙って聞く!」
 銀子に一喝《いっかつ》され、真九郎は口を閉じる。
 彼女には幼稚園の頃からの自分を知られており、それは真九郎の大きな弱みだ。
 どうして昔の自分を知られているのは恥《は》ずかしいのだろう?
 あの頃は、全《すべ》てが剥《む》き出しになっていたからか。
 頭の隅《すみ》でそんなことを考えながら、真九郎は銀子の説教を聞く。
「報酬《ほうしゅう》を値下げしたのは、あんたが自分の仕事に自信を持ってない証拠よ。過程はどうあれ、やり遂《と》げたなら、しっかり貰いなさい。安易に報酬を値下げするようなプロは、誰からも信用されないわよ」
 まさに正論という気がしたので、真九郎は反論できなかった。簡単な口|喧嘩《げんか》ですら、銀子に勝てた経験はほとんどない。知識も頭の回転も、昔から彼女の方が上なのだ。
 真九郎を見据《みす》えながら、銀子は二つ目のアンパンを齧《かじ》る。彼女は菓子パンが大好物で、よく食べるのだが、そのわりにはクラスでも一番の細身。自分の貧弱なプロポーションを多少は悲観しているようで、最近では前以上に食べる量が増えていた。それでもさっぱり肉がつかない。そういう体質なのだろう。
「だいたいね、あんたみたいなのが揉《も》め事処理屋なんてやること自体、間違ってんのよ」
「またその話か……」
 真九郎は少しうんざりしつつも、銀子に睨まれたので口を閉じた。仕事を始めるとき最後まで反対していたのは銀子で、それを聞き入れなかったことを未《いま》だに根に持っているのかもしれない。
 銀子は言いたいことを言って満足したらしく、ノートパソコンの画面に視線を戻す。口にアンパンを銜《くわ》えながらも、その指はキーボードの上を滑《なめ》らかに踊っていた。指はこれだけ動くのに、運動は大の苦手だったりするところが彼女の数少ない愛嬌《あいきょう》だ、と真九郎は思う。
「銀子、ちょっと頼みがあるんだけど、いいか?」
「仕事の依頼?」
「情報を集めて欲しいんだ、九鳳院《くほういん》の。真偽《しんぎ》の不確かなものも含めて、集められるだけ」
 詳しいことを紅香《ぺにか》が教えてくれなかった以上、こちらで調べる必要がある。
 銀子はキーを打つ手を止め、怪訝《けげん》そうに真九郎を見つめた。
「……九鳳院?」
 大|財閥《ざいばつ》である九鳳院と真九郎が、まったく結びつかないのだろう。
 真九郎は事情を簡潔に説明。念のため、九鳳院家の人間の護衛《ごえい》を頼まれるかもしれない、という曖昧《あいまい》な言い方に留めた。銀子のことは信用しているが、プロの情報屋に、迂闊《うかつ》なことは教えられない。
 村上銀子は、女子高生でありながら情報屋、しかも二代目なのだ。彼女の祖父、村上|銀次《ぎんじ》は、戦前戦後の混乱期、そして高度経済成長期に暗躍《あんやく》した凄腕《すごうで》の情報屋で、その人脈は全て孫娘の銀子に受け継がれている。なぜ三代目ではなく二代目なのかというと、本来それを受け継ぐはずだった銀子の父が、ラーメン屋の一人娘と結婚してしまったからだ。
「変ね、それ」
 話を聞いた銀子は、まるで信じていないようだった。
「何で?」
「そんなの、近衛《このえ》隊の仕事じゃない」
 銀子が言うには、公《おおやけ》にその存在は認められていないが、九鳳院財閥には近衛隊と呼ばれる集団がいて、それが一族の護衛を全て取り仕切っているらしい。近衛隊には銃火器の装備すら許され、戦力は自衛隊に次ぐほどのものだという。
「そんなマンガみたいなもんがいるのか……」
 お抱えの軍隊とは、世界|屈指《くっし》の大財閥ともなればさすがにスケールが違う。
 そう感心しながらも、真九郎は考える。
 銀子の情報が間違っていたことはない。近衛隊というのは、実在するのだろう。それなら一族の人間である紫《むらさき》の護衛を外部に依頼するのは、たしかにおかしい。不自然だ。
「その仕事、誰から聞いたの?」
「紅香さん」
「……ああ、あの人」
 こればかりは本気で不愉快そうに、銀子は眉《まゆ》をひそめた。彼女は、紅香にあまり良い印象は持っていない。その職業柄、紅香の様々な噂《うわさ》を知っているからだろう。活躍すれば、それだけ方々で恨《うら》みを買う。悪評がゼロなどあり得ない。良い噂より悪い噂の方が広まりやすいのは、裏《うら》世界も芸能界も同じ。
 袋の中から紙パック入りの牛乳を取り出し、それを一口飲んでから銀子は言った。
「あんた、あんなのと付き合ってると、ろくなことにならないわよ」
「そうか?」
「良くて獄中死《ごくちゅうし》。悪ければ、撃ち殺されるか焼き殺されるか食い殺されるかバラバラに解体されるか拷問《ごうもん》の末に正気を失うか……」
「……どれも嫌だな」
「とにかく、そういう話は無視しなさい。断るの。胡散臭《うさんくさ》すぎて、そんなの普通なら引き受けないけど、あんたバカだし。ちゃんと考えて行動しなさいよね。いい?」
 もう引き受けたとは言えそうになかった。
 やっぽり失敗だったかなあ……。
 銀子に暖昧に頷《うなず》いて見せながら、真九郎は昨日の出来事を思い返す。

 

 昨日は、あれから大変だった。
 紫が言うには、わざわざドレスを着ていたのは、その方が交渉《こうしょう》がスムーズに運ぶからという紅香の指示。目薬によるウソ泣きも、やはり紅香の指示。真九郎が台所に立って背を向けた隙《すき》に、目にさしたという。さらに、真九郎の返事を聞いて彼女の顔に浮かんだ驚きは、「こいつ単純だなあ」という類《たぐ》いのもので、俯《うつむ》いたのは笑いを堪《こら》えるため。
 ああいう格好《かっこう》は肩が凝《こ》るから嫌いだ、とぼやく紫の側《そば》で、真九郎は頭を抱えた。完全に、紅香の策略にはめられたのだ。しかし、今さら断るわけにもいかない。真九郎は、不満たらたらの紫に六畳一間の存在を説明。やがて紫も理解してくれたが、それでも、
「一般|庶民《しょみん》は我慢《がまん》強いのだな、こんな狭苦しいところで暮らせるとは……」 と、カルチャーショックのようなものはあるようだった。こんな子を預かるという無謀《むぼう》さを、真九郎はようやく実感していたが、後悔しても遅い。
 これからの同居人に、改めて自己紹介。
「俺は、紅《くれない》真九郎。これからよろしくね、紫ちゃん」
「ちゃんはやめろ、気色悪い」
 まったく可愛《かわい》げのない反応だった。
 偉《えら》そうに胸の前で腕を組み、紫は言う。
「わたしの名は九鳳院紫。一応、断っておくが、子供だからといって甘く見るな。まず、わたしは九鳳院だ。そこらの者とは血筋が違う。わかるな?」
 ここで頷かないと話が進まなそうだったので、真九郎は頷いた。
 それを満足そうに見ながら、紫は続ける。
「わたしは七歳だが、もうひらがなとカタカナはマスターしている。漢字だって、多少はいける。……ああ、わかるぞ。わたしの幼さでそれほどの知能を持っていることを、おまえが疑うのも無理はないな。証明してやろう」
 そう言って、紫は手を差し出した。真九郎がその小さな手の平を見つめていると、紫は苛立《いらだ》ったように手を上下に振る。何か書くものを寄越《よこ》せ、という意味だと察し、真九郎はメモ用紙と鉛筆を渡した。紫は、意外なほど滑らかに鉛筆を動かす。
「どうだ、この通りである」
 えっへん、と胸を張る紫。紙には「九鳳院紫」と書いてあった。「九鳳院」の漢字が微妙に間違っていたが、真九郎は見て見ぬ振りをし、小さく拍手《はくしゅ》。
 うむうむ、とご満悦《まんえつ》の紫。かなり練習した成果なのかもしれない。
 やっぱり子供だな、と真九郎は思った。
「えっと、それで……」
 彼女を何と呼ぼうか迷う真九郎に、紫は言う。
「わたしのことは、呼び捨てで良いぞ」
 てっきり「お嬢様」とでも呼ぶよう強要されるのかと思っていたので、真九郎は少し拍子抜《ひょうしぬ》けしたが、紫は鷹揚《おうよう》に頷いて見せる。
「なに、そんなに感動するな。わたしは、心の広い人間なのだ」
「あ、そう……」
「下々《しもじも》の者にも、差別はしない。使用人であるおまえにも、優しくしてやろう」
「それはどうも……」
「さて、真九郎。わたしは疲れている。用意しろ」
 寝床を用意しろ、ということか。
 これからのことを思うと少し気が重くなったが、真九郎は彼女の希望に従う。客用の布団《ふとん》などないので、真九郎は押入《おしい》れから自分の布団を出し、畳《たたみ》の上に敷いた。そして紫の方に振り返った瞬間、呆気《あっけ》に取られる。鞄の近くでゴソゴソやっているので当然、パジャマに着替えているのだろうと思いきや、紫は全裸《ぜんら》だったのだ。
「ん? 何をアホみたいな顔をしている」
 口をポカンと開けるだけで言葉が出てこない真九郎を、紫は怪訝《けげん》そうに見つめる。一度深呼吸してから真九郎が尋ねると、家ではいつもこうして寝るのだと、紫は答えた。彼女用の荷物が詰まった鞄には、服や下着などはあれど、パジャマは一着も無し。
 たしかに、裸《はだか》で寝るのは世界的に見れば非常識でもない。そうとは理解しながらも、紫のあまりの脱ぎっぷりの良さには驚くしかなかった。まるで恥じらいがなく、むしろさっきよりも堂々とした態度だ。
 せめてもの幸いは、真九郎の好みが、肉体的にも精神的にも成熟している女性であるということ。まだ胸の膨《ふく》らみもない紫の体には、純粋に健康的な美しさしか感じず、完全に興味の対象外。なので、目のやり場に困るということだけはない。
「床で寝るのか……」
 ベッド以外で寝るのは初めてらしい紫は、またカルチャーショックのようなものを受けていたが、「まあ許してやる」と横柄《おうへい》に言い、口に手を当てて上品に欠伸《あくび》を漏《も》らしてから、布団に潜る。そして真九郎に電気を消すように言いつけると、間もなく寝息が聞こえてきた。
 何と物怖《ものお》じしない子だろう、と真九郎は本気で感心。初めての部屋、そして初対面の相手のすぐ側で、こうも自然に振る舞える豪胆《ごうたん》さは、自分の幼い頃とは比べ物にもならない。母か姉が側に居なければ絶対に眠れなかった昔を少し思い出しながら、真九郎も寝床についた。よほど疲れていたのか、紫は翌朝になってもまだ目を覚まさず、彼女が起きないようにそっと部屋を抜け出し、真九郎は学校に来たのだった。

 

 それにしてもよく寝てたな……。
 あれだけ疲れているのは、五月雨《さみだれ》荘に来る道中に苦労があったということだろうか。
 やはり、裏に何かあるのか。
 真九郎がそんなことを考えている間にも、銀子の話は続いていた。
「理不尽な暴力を、それ以上に理不尽な暴力で叩きのめす。それが柔沢《じゅうざわ》紅香のやり方よ。そんなのに付き合ってたら絶対、絶対不幸になるから、なるべく距離を置きなさい。あんたバカなんだし、簡単に利用されちゃうわよ」
「いや、俺なんか利用しても……」
「バカはバカなりに使い道があんのよ。九鳳院の情報は一応集めてあげるけど、本当に注意しなさいよ、バカなんだから」
「ああ、わかった」
「それとね、あんた……」
 銀子はまだ何か言いたそうだったが、教室に他の生徒が入って来たのを見て、再び自分の作業に集中した。真九郎は気にしないのだが、銀子は、自分と真九郎が親しいと周りに思われるのは避けた方がいいと言う。お互いに迷惑だろうと。
 真九郎も、自分の席へと戻った。
 さて、取り敢《あ》えずは今日一日を乗り切ろう。
 その後で、紫にいくつか訊《き》きたいこともある。
 やることがある、というのは気持ちがいい。
 余計なことを考えずに済む。
 真九郎は大きな欠伸をし、一時限目の授業に向けて気持ちを切り替えることにした。

 

 部屋に帰ってきた真九郎を待っていたのは、紫のムスっとした不機嫌顔だった。
「説明してもらおうか」
 結局、紫は昼過ぎまで寝ていたようだが、目を覚ましても部屋には誰もおらず、かといってこのへんの地理には詳しくないので、仕方なく真九郎の用意した菓子パンなどを食べながらアパートの敷地内をブラブラ步いていたらしい。退屈だから怒っているのかと思いきや、彼女の怒りは真九郎が不在の件に向けられていた。
「わたしを放って、どうして勝手に外出などした?」
「いや、俺、学生だし、学校があるから……」
 四六時中一緒にいられないであろうことは、依頼した紅香も承知《しょうち》していること。護衛としては致命的なその問題も、この五月雨荘という場所があればクリアされる。ここにいれば絶対安全。仮に真九郎が何処《どこ》かで誰かに殺されてしまっても、紫だけは、ここにいる限り命の安全は保障されるのだ。
 真九郎はそのへんの説明をしようとしたが、相手は幼い子供。どう噛《か》み砕《くだ》いたものかと思案していると、紫は首を傾《かし》げる。
「……学校? それは、同年代の者たちが集まり、学問を学ぶという場所のことか?」
「そうだけど……」
 変な反応だなと真九郎は思い、そこで、ふと疑問を抱いた。
 紫は七歳。普通なら小学一年生。学校はどうしているのだろう。
「紫は、学校に行ってないのか?」
「行ってない。必要ないのだ」
「必要ない?」
「学校とは、学問を学ぶと同時に、社会に出るための下準備を整える場所と聞く」
「まあ、そうかな」
「ならぽ、やはりわたしには必要ない」
 紫はきっぱりとそう言い、しかし、かすかな未練を込めるように続けた。
「……少し、興味はあるがな」
 九鳳院家の人間ともなれぽ、超一流の私立校に自然と進むように思えるが、それは真九郎の抱く勝手なイメージで、現実はもっと複雑なのか。
「わかった。学校ならしょうがない。大目に見てやろう」
 寛容なご主人様、という態度で頷く紫。一応|雇《やと》われている身の真九郎としては、彼女の言葉を黙って聞くしかない。
「真九郎、わたしは風呂に入りたい。案内しろ」
 疲れもあり、昨日は風呂に入らずに眠った紫の希望。
 解消されない疑問は山積みだったが、真九郎は洗面器に二人分のタオルを入れると、紫を連れてアパートを出た。行き先は、五月雨荘から步いて三分の場所にある銭湯《せんとう》。その短い道中にも、好奇心をこめた視線を周りに向けていた紫だが、もうもうと煙の上がる銭湯の煙突には感嘆《かんたん》のため息を漏らしていた。
「ほう、庶民はここで風呂に入るのか。わざわざ外出せねばならんとは、難儀《なんぎ》なことだな」「……いや、みんながみんな利用するわけじゃないそ」
 一応|訂正《ていせい》した真九郎は、そこで大事なことに気づく。銭湯にはもちろん、男湯と女湯がある。本当ならここで別れるべきだが、護衛役としてはどうだろう。ここは、近所の人間しか利用しない銭湯。しかし、不審《ふしん》な人間が紛《まぎ》れこんでないとは言い切れない。さてどうするか。
 そんな真九郎の悩みなどお構いなしに、紫は入り口に向かって駆け出した。
 向かう先は、男湯の暖簾《のれん》。
 真九郎が慌《あわ》ててあとを追い、暖簾を潜《くぐ》ると、紫は番台の老人と話しているところだった。
「お嬢ちゃん、一人かい?」
「違う。使用人と一緒だ」
「使用人?」
 あとから入ってきた真九郎を、番台の老人が訝《いぶか》しむように見る。それに曖昧な笑みを返しながら真九郎が尋ねてみると、十歳までは一緒で問題ないと言われた。どういう基準なんだろう、と思いながら真九郎は二人分の料金を払い、紫を連れて脱衣所へ。他人と交じり、こんな場所で服を脱ぐのは初めての経験だろうが、彼女は特に気にするふうでもなく服を脱いでいた。そして真九郎を待たずに風呂場へと向かう。腰にタオルを巻きながら、真九郎はそのあとを追った。紫にもタオルを渡そうとしたが、「不要だ」と彼女は突っぱねる。何を隠すことがあるか、と言わんぼかりの態度。腰にタオルを巻く真九郎の方がみっともないような、そんな錯覚《さっかく》さえ抱かせる。本当の上流階級の人間、例えば王族などは、身分の低い者に裸を見られることを何とも思わないのだと、真九郎は前に銀子から聞いたことがあった。身分の低い者は、自分と同じ人間ではない。だから差恥心《しゅうちしん》が働かない、という理屈らしい。紫の態度は、それと幼さが入り混じったものなのかもしれない。
 風呂場に一步入ると、紫はしぼらく感心するように中を見回していた。大きな風呂にいろんな人間が一緒に入るという発想が、彼女にとっては新鮮なのか。放っておくといつまでも眺《なが》めていそうなので、真九郎は紫の手を引いて近くの洗い場に腰を下ろす。
 隣に腰を下ろした紫は、横柄に一言。
「頼むぞ」
 九鳳院家では、使用人に洗わせるのが普通らしい。真九郎に触れられるのを嫌がっていた彼女だが、それとこれとは別ということか。自分を振りかえってみても、幼い頃は姉に洗ってもらっていた経験があるので、真九郎は仕方なく従う。
「背中くらいはいいけど、あとは自分で洗えよ」
「なぜだ?」
 おまえそんなこともできないのか、という紫の眼差《まなざ》し。
 相手は子供、ここは我慢隔と心の中で念じながら真九郎は他の家族連れを指差し、紫と同年代の子供が自分で洗っていることを説明。紫はあまり理解してないようだったが、ため息を吐《つ》きながら頷いた。
「……まあ、良かろう。おまえができないというものを無理にさせるのは酷《こく》であるし、わたしの本意でもないからな。許す」
 では背中を洗え、と真九郎に背を向ける紫。
 いちいち偉そうな奴《やつ》だ、と思いながら真九郎はタオルに石鹸《せっけん》をつけ、彼女の背中を擦《こす》った。一度擦ってから、真九郎は手を止める。幼いということを差し引いても、彼女の白い肌《はだ》はあまりにも滑らか。何の引っ掛かりもなく水滴が流れ落ちていく。女性が喉《のど》から手が出るほど欲しがる肌とは、こういうものなのかもしれない。
 細かい傷だらけの自分の肌と見比べ、真九郎は苦笑を浮かべた。
 これが育ちの差ということか。
 背中を洗い終え、真九郎は紫にタオルを渡す。自分で洗ったことがないらしい紫は、真九郎の見よう見真似《みまね》で実行。体は上手《うま》くいったが、髪の毛は大苦戦していた。
「な、何だこれは! 目に染《し》みるぞ!」
 シャンプーは目に染みて当然だと真九郎は思うのだが、九鳳院家で使っていたものは違ったらしい。子供用の特製なのだろう。百二十円のシャンプーでは、そうもいかない。
 彼女の顔をシャワーで洗い流してやり、どうにか機嫌を直してもらいながら、真九郎は思う。
 ……これから毎日、こんなことするのか。
 少しだけ憂欝《ゆううつ》になった。

 

 お湯の熱さに耐えられないようで、紫は三十秒ほどで湯船から上がった。そして真九郎を待たずに脱衣所へ。真九郎はもう少し長く浸《つ》かっていたかったが、彼女を追う。
 大好きな風呂も、こうも騒がしいと疲れるだけ。かつての自分も、やはり両親や姉に迷惑ばかりかけていたのだろうな、と思いながら脱衣所に行くと、下着姿の紫が、何かを持っていた。近くの売店で売っている、瓶《びん》入りのコーヒー牛乳だ。どうしたのか真九郎が訊くと、「あの男からもらった」と紫。指差す先にいたのは年配の男で、マッサージ梅彩に腰かけ、ニコニコしながら紫の方を見ていた。近所の商店街にある、酒屋の店主だ。五月雨荘で宴会をする際はよく店を利用するので、真九郎も多少は顔見知り。軽く頭を下げると、向こうも片手を上げて応《こた》える。少年野球チームの監督を務めるほど子供好きで知られる人物であり、紫に奢《おご》ってくれたのだろう。
「ちゃんとお礼は言ったのか?」
「礼? なぜだ?」
 両手で瓶を持ちながら飲んでいた紫は、怪訝そうに真九郎を見上げる。
「くれるというものを、わたしはもらった。それだけだぞ」
 真九郎は拳《こぶし》を握り、紫の頭を軽く叩いた。
「……っ!」
 紫は両手で頭を押さえてうずくまり、その拍子に落ちた瓶を真九郎はキャッチ。十秒ほどして、紫は顔を上げた。今自分にされたことが信じられない、という表情で、目には僅《わず》かに涙が浮かんでいる。
「お、おまえ、わたしを叩いたな! しかもグーで! しかもグーで!」
 真九郎はもう一発叩く。
「……ま、また叩いたな!」
 頭を押さえ、涙目で抗議してくる紫に、真九郎は言った。
「誰かに良くしてもらったら、ちゃんとお礼を言え。それは当たり前のルールで、子供でも守らなきゃダメだ」
 言ってから気づく。
 これって、俺が昔よく言われたことだよな……。
 まさか自分が、誰かに説教する日がくるとは。
 紫が無言だったので、やり過ぎたか、と真九郎は心配になったが、それは杞憂《きゆう》に終わった。紫は意外にも平静を取り戻し、真九郎に言われたことを吟味《ぎんみ》するように目を閉じると、しぼらくして頷いたのだ。
「……なるほど、おまえの言うことは正しい。間違っていたのは、わたしの方だ」
 あまりに素直なので面食《めんく》らう真九郎に、紫は目を開けて言う。
「すまなかった。許せ」
「あ、いや……」
 反応に困る真九郎をそのままに、紫は酒屋の店主のもとに行くと、お礼の言葉を口にした。店主の笑みが濃くなり、大きな手で紫の頭を撫《な》でる。戻ってきた紫は、戸惑《とまど》う真九郎の前で着替えを終えると、
「では、そろそろ帰ろうか」
 と言い、返事を待たずに出ロへ。
 真九郎も慌てて着替え、洗面器を持ってそれを追った。
 何だか追ってばかりだな、と思いながら。

 

 部屋に戻った真九郎は、夕飯の支度《したく》をすることにした。テレビでも観《み》て待っているよう紫に言うと、彼女はテレビの前で首を捻《ひね》る。電源の入れ方がわからないらしい。真九郎がテレビの根元にあるスイッチを押してやると、紫は「おお!」と声を上げた。
「リモコンのないテレビは初めて見たぞ。斬新《ざんしん》だな」
 嫌味かよ、と真九郎は思ったが、九鳳院家なら最新型の大画面テレビに慣れているのだろうし、ゴミ捨て場で拾った旧式のテレビは逆に新鮮に見えるのかもしれない。つまみを回してチャンネルを変えることを紫に教え、好きなようにさせる。紫は、しばらく珍《めずら》しそうにガチャガチャとチャンネルを回してから、アニメ番組に合わせた。
 真九郎は冷蔵庫を開けて食材を取り出し、料理を開始。五月雨荘は、造りは古いが設備はしっかりしており、台所の火力は十分。中華|鍋《なべ》に油を引き、冷やしておいたご飯を入れてよくほぐしながら、卵、刻《きざ》んだネギ、そして小さく角切りした豚肉《ぶたにく》を入れる。片手で鍋を振るい、そろそろ出来上がった炒飯《チャーハン》を皿に移そうとしたところで、誰かがドアを叩く音。
 紫は当然のようにテレビの前から動かないので、火を弱火にして真九郎が出る。
「どちらさん?」
「こんばんはーっ!」
 呑気《のんき》な笑顔でドアの向こうから現れたのは、武藤《むとう》|環《たまき》。隣の6号室に住む大学生だ。とはいっても、真九郎は彼女が真面目《まじめ》に学校に通っている姿を見たことがないので、本当かどうかはわからない。よく見ればかなりの美人なのだが、寝癖《ねぐせ》が残る髪の毛を無造作《むぞうさ》にゴム紐《ひも》で縛《しば》り、上下はジャージ、足には下駄という女らしさの欠片《かけら》もない格好が、全てを台無しにしていた。さらに大酒飲みで、酒癖も悪い。たまに泥酔《でいすい》して廊下で寝ている姿などは、ホームレスと見間違えられてもおかしくはないほど。 五月雨荘で最も妖《あや》しい住人が闇絵《やみえ》なら、最も騒がしい住人がこの環だ。
「何ですか、環さん?」
「お醤油《しょうゆ》貸して」
 よくあることなので、真九郎は何も言わずに醤油瓶を渡す。
「あー、あと、お塩も貸して」
 塩を渡す。
「ついでにお味噌《みそ》も」
 味噌を渡す。
「だったらお米も」
 米を渡す。
「さらに炊飯器も」
「全部ですか!」
「全部じゃないよ。オカズは自前で用意するもん。……あ、オカズって部分で変な想像したでしょ? まあ、お下品」
 男の一人暮らしじゃ溜《た》まるもんねー、と笑い出す環。酒癖が悪いという点だけでも迷惑だと真九郎は思うのだが、彼女はおまけに下ネタ好き。
 五月雨荘に入居した初日に、
「これ、入居祝い!」
 と言って大量のアダルトビデオをもらったときは、真九郎も頭を抱えたものだった。
 どう追い返そうか真九郎が考えていると、環はテレビの前にいる紫に目を止める。
「うわ、何この子? すっこい美形じゃん」
 真九郎が何か言う間もなく環は部屋に上がり、紫の前にしゃがんだ。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「九鳳院紫である」
「あーん、声も話し方も可愛い!」
 環は紫の頭を撫で、さらに顔や体を触りまくったが、意外にも紫は無抵抗。人間に構われすぎて迷惑してる子猫のような顔で、されるがままになっていた。それを見ながら、酒屋の店主や環には触るのを許すのに、自分だと跳《は》ね除《の》けられたのは何故《なぜ》だろう、と真九郎は思う。
「あたしは、6号室の武藤環。真九郎くんのセックスフレンドだよ」
「せっくすふれんど?」
「ウソ教えんなよ!」
 真九郎の抗議を無視して、環はうっとりした様子で紫の頬《ほお》の柔らかさを堪能《たんのう》。「んー、至福《しふく》の感触……。で、真九郎くん、どしたのこの子?君の妹?」
「……今、そいつから名前聞いたじゃないですか」
「あ、そかそか。えーと、じゃあ君のこれ?」
左手の小指を立て、ニンマリといやらしい笑みを浮かべる環。
「こんなに守備範囲が広いならさあ、今度うちの道場に遊びに来なよ。可愛い子いるよ。特に、円《まどか》ちゃんと光《ひかる》ちゃんが将来有望で、今から粉《こな》かけとけば……」
「あんたもう帰ってくれ」
「いやーん」
 抵抗する彼女に、真九郎は妙飯を皿によそって渡す。うるさくて迷惑な人だが、真九郎は彼女が嫌いではないし、実は尊敬すらしているのだ。
 環は、ニコニコ顔で妙飯を受け取った。
「サンキュー。で、この子、しばらく預かるの?」
「仕事です」
 そっか、と言うだけで余計な詮索《せんさく》はしない環箔それは五月雨荘のルール。
「あたしさ、こう見えても人生経験は豊富だから、性の悩みとか、性の悩みとか、性の悩みとか、じゃんじゃん相談してね」
「絶対しません」
「コンドームいる?」
「……マジで、もう帰ってください」
 真九郎が出口を指差すと、環は未練がましそうな顔をしながらも部屋を出て行った。
 やれやれと息を吐き、真九郎は自分と紫の分の妙飯を皿によそい、ようやく夕飯。空腹だったからか、紫は活発にスプーンを動かし、満足そうに食べ終えた。
「材料は貧弱だが、味は問題ない」
 という評価をもらい、真九郎も食事を終える。
 そして寝る段階になって、布団のことを思い出した。
 真九郎はあまり夜更《よふ》かしをする方ではないので、紫に付き合って早めに寝ることに抵抗はないが、布団は一つ。昨日は紫に布団を譲《ゆず》り、床に転がって寝た真九郎だが、毎晚ではさすがに辛《つら》い。こんなことならさっき環に布団を借りれば良かったとも思うが、ビデオやマンガで溢《あふ》れた彼女の部屋の惨状《さんじょう》を考えれば、どんな布団が出てくるのか怖い。
 さっさと歯を磨《みが》いた紫は布団に入り、真九郎を見上げる。
「何を突っ立っているのだ?」
「……何でもないよ」
「そうか」
 紫は特に気にせず、「早く電気を消せ」と言い、目を閉じた。
 初日にはあれだけ環境に不満を述べていた彼女だが、一度そういうものだとわかると、もう許容できてしまうらしい。適応力が高い。九鳳院家の人間ともなれば、多少のことでは動じないということなのか。
 真九郎は明日の授業で使う教科書を鞄に収め、裸電球の明かりを消すと、畳の上に寝転んだ。耐えられない寒さではないが、できればストーブが欲しいところだ。今度、暇を見つけてゴミ捨て場を漁《あさ》ってみようか。布団は、さっそく明日にでも買ってこよう。安ければいいが。
 僅《わず》かな星明かりだけが差し込む暗い部屋でそんなことを考えていると、真九郎は紫がもぞもそと動くのを感じた。手で頭を擦《さす》っているようだった。
 真九郎は最小の力で叩いたのだが、相手は七歳の女の子。少し心配になり、声をかけようとしたところで、紫が小声で言う。
「……真九郎は、怖くないな」
「えっ?」
「痛かったけど、怖くはなかった。痛いのに怖くないなんて、初めてだ。痛いと怖いは、一緒ではないのだな」
 紫は、真九郎に叩かれたところを不思議そうに手で擦っていた。
「まだ痛むのか?さっきは……」
「謝るな」
 ごめんな、と続けようとした真九郎の言葉を、紫は遮《さえぎ》る。
「おまえの言い分は正しかった。それを教えるために、ああした。だから謝るな。無闇《むやみ》に謝れば、おまえの伝えたかったことが曖昧になってしまうぞ」
「……そう、だな」
「また何かあれば、教えてくれ。わたしは学びたい」
 わかった、と頷きながらも、彼女の向上心と理解力に、真九郎は舌《した》を巻いた。
 これが名門、九鳳院家に生まれた人間というものか。
 自分が彼女と同じ歳《とし》の頃など、ただ毎日遊び呆《ほう》けるだけだったのに。
 しかし、物事を学ぶ姿勢を持つ彼女が学校に通ってないのはどういうことだろう?
 それは九鳳院家の内情に関わることなのだろうか。
「真九郎、さっそくで悪いが、おまえに教えて欲しいことがある」
「どうぞ」
「せっくすふれんど、とは何だ?」
「……子供は知らなくていい」
「そうなのか? では、コンドームとは何だ?」
「もう寝ろ」

 

 いつもの発作《ほっさ》がきた。
 死んだ。みんな死んだ。大勢死んだ。たしかに握っていたはずの姉の手の感触はなく、母の声も聞こえず、父の姿も見えない。視界を暗闇《くらやみ》が埋め尽くしていた。目を開けているのかどうかもわからない。頭が痛む。顔がヌルヌルする。体中がヌルヌルする。何かで濡《ぬ》れている。重い。何か見えないものが、体の上に乗っていた。一度の呼吸さえも集中力を要する作業。気を抜くとすぐに息が詰まる。声を出そうとしても、痛む喉がそれを許さない。何だこれは。何だこれは。どうしてこんなことになったんだ。誰か助けて。誰か助けて。誰か、僕を、助けて。お願いです。
 でもその願いは、どこにも届かなかったのだ。
 目を撹ました真九郎は、窓から差し込む朝日を見てホッとした。脂汗でじっとりと濡れた額《ひたい》を手で拭《ぬぐ》い、何度か深呼吸を繰り返す。
 大丈夫、俺は生きてる。
 呼吸は正常、手足も動く、目も見える。
 両手を何度か握導、軽くストレッチしながら横に目をやると、そこには布団にくるまった小
さな存在が一つ。胎児《たいじ》のように体を丸めた紫の姿は、まるで生まれたての天使。世間《せけん》の穢《けが》れを知らない、あまりにも無垢《むく》な寝顔。真九郎はそっと手を伸ぽし、紫の小さな鼻先を軽く摘《つま》んだ。それをむずがる様子の微笑《ほほえ》ましさに、心を占めていた暗いものが晴れる。こんな幼い子と同じ部屋にいる自分が、とても不思議に思えた。
 この子が、誰かに狙《ねら》われているという。九鳳院家の人間ならば狙われる理由はいくらでもあるだろう。営利目的の誘拐組織にとって、これほど価値のある獲物はまずいない。しかし、その護衛をどうして紅香は真九郎に頼んだのか。たしかに、この五月雨荘の安全度は破格のものだが、それを差し引いても真九郎に護衛を頼んだ理由がわからなかった。銀子から聞いた近衛隊のことも含めて、この件は、どう考えても腑《ふ》に落ちないことばかり。
「……ま、いいか」
 真九郎は窓を開け、吹き込む冷たい風を浴びて、より一層意識を覚醒《かくせい》させた。
 なるようになるのだ、結局は。
 あのとき絶望しても、今はこうして生きているように。

 

 学校から帰ってきた真九郎は、今夜のことを考えて買い物に行くことにした。紫の歓迎会をやろうと環が提案してきたので、そのための買い出しである。紫も同行を希望し、真九郎は承諾《しょうだく》。紫は、銭湯に行く以外は五月雨荘に半《なか》ぽ閉じ込められる形になっているので、多少の散步は必要だろうと思ったのだ。真九郎は紫を連れ、街に出る。周囲をそれとなく警戒《けいかい》しながら進む真九郎をよそに、紫は勝手にどんどん進んで行った。街を步くのは、彼女にはとても新鮮なことらしい。九鳳院家ともなれぽ、普段の移動は車が基本で、徒步で何処《どこ》かへ向かうことはあまりないのだろう。
 紫は好奇心に任せて動き回り、自分の持つ知識を確認するように、真九郎にあれこれと尋ねた。学校に行ってないという紫は、どこで学んだのか。九鳳院家独自の教育システムでもあるのか。ちょこまかと步く彼女を追い、真九郎は商店街を進んだ。
 スーパーに着き二階に上がると、安売りの布団一式を見つけたので真九郎は購入。
「庶民は、硬貨と紙幣《しへい》を素手でやり取りするのか……。それでは手が汚れるな。カードの方が、便利だろうに」
 レジでお金を払う真九郎を見て、紫はそんな感想を述べていた。彼女は肉や野菜などの食料品にはまったく興味を示さず、お菓子売り場では足を止めたが、自分と同年代の子供たちが楽しそうにお菓子を選んでいるのを一瞥《いちぺつ》すると、「ふん、ガキだな」と言い捨て、さっさと移動。もちろん荷物は何一つ持とうとはせず、全て真九郎に任せて外に出る。
 真九郎が紫のマイペースぶりにも腹が立たないのは、何事にも物怖じしない彼女を観察していると、少し楽しいからだろうか。自分にはない要素を、こんな小さな女の子が持っているのが不思議で面白《おもしろ》い。
 スーパーの外に出た真九郎は、隣にいる紫が何かをじっと見ていることに気づいた。視線を追ってみると、その先にあったのは一軒のケーキ屋。雑誌に取り上げられたこともあるとかで、商店街の中でもわりと繁盛《はんじょう》している店だ。真九郎も、師匠《ししょう》への土産《みやげ》で何度か買ったことがある。ケーキと一緒に自家製のアイスも売っていて、美味《うま》いと評判。今も数人の小学生たちがソフトクリームを買い、店の前で食べていた。紫は、その様子を眺めていたが、真九郎の視線に気づいて慌てて弁解する。
「べ、別に食べたいわけではないそ、あんな子供の食べ物! わたしは、ただ見ていただけで、他意はない」
 こういうところは、わかりやすい子だ。
 冬に冷たいものを食べるのもまた一興《いつきょう》と思い、真九郎は店に行き、ソフトクリームを二つ買う。一つを紫に差し出すと、彼女は目を輝かせて手を伸ばしかけ、しかし、すぐに受け取るのはブライドが許さないのか、胸の前で腕を組んだ。
「そんなチープな品に興味はない。……が、まあ、くれると言うのを断るのも失礼だろうな。おまえの誠意を傷つけるのは、わたしとしても心苦しいところであるし、ここは受け取るのが妥当《だとう》であろう」
 長ったらしい言い訳を述べてから、紫はソフトクリームを手に持つ。甘い物を食べる姿は、普通の子供と同じだった。小さな舌で美味《おい》しそうに舐《な》めながら、紫は頬を緩ませる。
 その隣で真九郎もソフトクリームを舐めていたが、周囲の警戒だけは怠《おこた》らない。いつどこで、どんなふうに襲《おそ》われるかわからないのだ。そもそも、どんな相手に狙われているのかも、真九郎はまだ知らない。
 今ならいいかなと思い、紫に尋ねてみる。
「おまえさ、どんな奴に狙われてるのか、紅香さんから何か聞いてない?」
「真九郎、あれは何だ?」
 無視しやがった。
 仕方なく紫の指差す先に目をやると、そこには大手のドラッグストア。各種取り揃《そろ》えられたサプリメントに、客が群がっている。真九郎も詳しくはないが、テレビなどを観ていると、最近はそういうものが流行《はや》っているらしい。健康ブームというやつだ。誰も彼もが、自分の健康|維持《いじ》に躍起《やっき》になっている。健康でないことを恐れている。
 それを簡単に説明してやると、紫は不思議そうに首を傾げた。
「どうして薬で補《おぎな》うのだ?よく食べ、よく動き、よく寝れぽ、体は自然と健康になろう」
「そりゃあそうだけど……。そんなのは理想で、現実はそうもいかないんだよ。食べることも、動くことも、寝ることもな」
「なぜだ?」
「それは……」
 どうしてだろう?
 食べ終えたソフトクリームの包み紙を丸め、それを手の平で転がしながら真九郎は考える。
 彼女の言い分はもっともだ。薬で補う必要があるのは、普段の生活では足りていないから。足りないのは栄養、そして余裕。健康法や疲労解消法は、テレビでくどいほど特集が組まれるネタだ。不健康だから、疲れているから、みんな知りたがる。みんなが不健康で、みんなが疲れている社会。犯罪発生率の上昇だけではなく、そういう部分にも社会の歪《ゆが》みは現れているのか。
 紫の素朴《そぱく》な問いにも答えられない己《おのれ》の無知に呆《あき》れながら、真九郎は包み紙をゴミ箱に投げ捨てる。最初から戯《たわむ》れで訊いただけなのか、紫は特に不満そうでもなかった。
「まあ、外の世界にはいろいろあるということか」
「外の世界……?」
「さっきの質問だがな」
 ソフトクリームを舐めながら、紫は唐突《とうとつ》に話題を戻す。
「おまえの知りたいことに、わたしは答えられない」
「どうして?」
「何も語るな、と柔沢紅香から言われている」
「そんな……」
「よくわからんが、そういうことは言わぬが花らしい」
 わけがわからない。
 それもまた、紅香の直感というやつなのだろうか。
 俺を試してるつもりなのかな……。
 真九郎が何処までできるのか、その力を計るのが紅香の目的という可能性。ただ、それにしては紫の護衛というのはリスクが大き過ぎるように思う。
 悩む真九郎の横顔を、紫はしばらく見上げていたが、ソフトクリームの残りを口に入れながら眩く。「……本当に、おまえで良いのだろうか」
「えっ?」
「いや、何でもない」
 紫はそう言い、丸めた包み紙をゴミ箱に捨てた。
「さて帰るか、真九郎。そろそろ冷えてきたしな」
「ああ」
 それに頷きながらも、イマイチ釈然《しゃくぜん》としないなあ、と思う真九郎を、紫が再び見上げる。
「一つ忘れていた。ありがとう、真九郎。ソフトクリームは美味かったぞ」
「……そいつは良かった」
 物言いは傲慢《ごうまん》だが、こういう素直さも持ち合わせている子だった。
 自然と相手の善意を引き出してしまうような、そんな雰囲気《ふんいき》が彼女にはある。
 これも九鳳院の血なのか、それとも彼女の特性か。
 この子はどんな大人になるのだろう。
 冬空の下、紫の隣を步きながら、真九郎はそんなことを思った。

 

 夜になると、缶ビールを五ダース、缶ジュースを一ダース持って、環がやって来た。さらに、大学のサークルでもらったのだという中古の電気ストーブを、真九郎に渡す。
「いいんですか?」
「いーのいーの」
「……『持ち出し厳禁』て張り紙してありますけど?」
「いーのいーの」
 ホントかよ、とは思ったが、ありがたいので真九郎はもらっておくことにした。自分一人なら寒さも我慢できるが、幼い紫にそれを強《し》いるわけにもいかない。
 少し遅れて闇絵も参加し、初対面の紫と堅苦しい口調で挨拶《あいさつ》を交わす。
「わたしは闇絵だ。どうぞよろしく、少女」
「うむ、よろしくな」
 ついでにと、闇絵は足元にいた黒猫のダビデも紹介。ダビデは紫を見上げて「ニャー」と鳴き、紫も「ニャー」と応じる。そして改めて、紫は闇絵をしげしげと眺めていた。
 黒ずくめの服装とドクロの首飾りには、さすがに少し驚いているらしい。
「……おまえは魔女なのか?」
 こんな質問を堂々としてしまうところが、紫の幼さであり性質か。
 特に気分を害したふうでもなく、闇絵は答える。
「いや、わたしは悪女さ」
「悪女?」
「男を手玉に取り、金を貢《みつ》がせて優雅《ゆうが》に生きる、女として最上級の存在だよ」
 それはすごい、と紫が本気で感心しているのを見て、真九郎は苦笑した。
 高校入学と同時にこの五月雨荘に入居した真九郎だが、住人全員と知り合いというわけではない。交流があるのは4号室の闇絵と、6号室の環。あとは滅多《めった》に部屋にいない1号室の鋼森《こうもり》くらいで、残りの部屋は住人がいるのかどうかすらも知らないのだ。管理人とも、入居の挨拶のとき以来会っていない。
 そもそもこの五月雨荘は、いわゆるご近所づきあいが成立しないのが普通のようで、真九郎が闇絵や環と交流があることの方が珍しいらしい。五月雨荘では、自分の部屋で何をしようと自由。他の住人は、それに口出し無用。もし他の部屋で明らかな犯罪が行われていると真九郎が知っても、それを警察に通報しようとは思わない。ここへ入居する際、そのルールを遵守《じゅんしゅ》することを誓約《せいやく》させられているのだ。
 環と闇絵は、真九郎が揉め事処理屋をやってることを知っているが、それ以上のことは知らない。真九郎も、環が大学生で、町の空手道場で師範《しはん》をしていることしか知らないし、闇絵に関しては、普段は何をしているのかも不明。
 ほぼ毎日顔を合わすのに、何と薄っぺらな関係か。そう思いながらも、真九郎はここの限定的な人間関係が好きだった。お互いのことをたいして知らずとも普通に交流できる、というのがいい。他人に知られたくないことは、たくさんある。
 四人が囲むちゃぶ台の上には、真九郎の用意した鍋とガスコンロが置かれていた。鍋の中身は湯豆腐《ゆどうふ》。環も闇絵も料理のスキルは持っていないので、必然的に鍋の管理は真九郎の役目となる。鍋物は初めてなのか、紫は煮え立っ鍋を黙って見ていた。真九郎が器《うつわ》に豆腐と白菜をよそって渡してやると、紫はフーフーと冷ましながら食べ、少し笑う。気に入ったらしい。そうしているうちにも環は既《すで》に缶ビールを十本|空《あ》け、闇絵もちびちびとやっていた。狭い部屋に四人も集まっているのですぐに熱気が溜まり、さらに闇絵のタバコの煙が充満したのを見て、真九郎は窓を開ける。澄《す》んだ冷たい空気に乗って入ってきた枯葉が一枚。それは紫の頭に載り、気づかずに食事を続ける彼女の様子に苦笑しながら、真九郎はさりげなく指先で枯葉を摘むと、窓の外に戻した。
「……そんで、真九郎くんは夕乃《ゆうの》ちゃんと、どのへんまでいってんの?」
 そろそろ酔いが回り始めた環が、真九郎の首に腕を回し、強引に引き寄せる。赤ら顔で酒臭い息を吐きかけ、ニタニタ笑う姿は、酔っ払いのオッサンと変わらない。
 いつものことなので、真九郎はウーロン茶を飲みながら平然と対応。
「別に、何にもないです」
「じゃあ、銀子ちゃん? 幼なじみと合体か、このスケコマシ!」
「変なとこ触らないでくださいよ!」
「ケチー。お姉さんにも潤《うるお》いをおくれよ。もう、タマちゃんて呼んでいいからさ」
「……胸元、チャック閉めてください。ブラジャー見えてます」
「嬉《うれ》しいくせに」
「興味ないです」
「あー、七十七センチのバストを.バカにしたな! 四捨五入すれば八十だぞ!」
 もっとあたしの相手しろー、と環に拳骨《げんこつ》で頭をグリグリやられつつ、真九郎は鍋に豆腐を追加。そして火加減を調節。紫の方に目をやると、彼女は箸《はし》で小さく切った豆腐をダビデに食べさせようとしていた。熱い豆腐には口をつけないダビデ。紫は少し考え、よく冷ましてから与える。ようやく食べ始めたダビデを見て、紫は嬉しそうに笑った。
「猫とは、可愛い生き物だな」
 紫が撫でると、ダビデは気持ち良さそうに喉をゴロゴロ鳴らす。
 その様子を眺めていた真九郎は、悪くない、と思った。何がどう悪くないのか説明できないが、子供らしく笑っている紫を見ていると、人生のいろんなことが、一瞬だけ許せるような気持ちになった。たかが笑顔に、そんな力がある。人間とは何て単純なのか。その単純さも、たまには悪くない。
「でさあ、大学でちょっといい男がいたんだけど、拳で岩を砕くような女とは付き合えないっちゅーのよ。下駄でフルマラソン走り切るのも変だっちゅーのよ。これ、どう思う?」
「……どうも思いません」

 

 それから数日後の昼休み。購買部の混雑に負け、ウーロン茶だけを手に入れた真九郎は、銀子でも誘って学食に行こうかと考えたが、戻った教室内に彼女の姿は見当たらなかった。
 近くにいた女子生徒に尋ねてみると、銀子はノートパソコンを抱えてどこかへ消えたらしい。あんまり関わらない方がいいんじゃない、とありがたい忠告もいただいたが、真九郎は暖昧な笑みで返し、女子生徒に礼を言って教室を出る。一学期の頃はまだ銀子と仲良くしようとする女子生徒もいたのだが、今ではすっかり嫌われ者だ。非があるのは、周りと合わせる気がない銀子の方だろう。しかし、彼女自身が現状に何のストレスも感じてないので、変わる気配もない。
 協調と妥協《だきょう》はどう違うのか、などと考えながら真九郎は廊下を步き、階段を下りつつ銀子の居場所の見当をつけていると、踊り場で知り合いと鉢合《はちあ》わせになった。
「あ、真九郎さん」
「……夕乃さん」
 真九郎は、周りの視線がこちらへ集まっているのを感じた。それらが向かう先は自分ではなく、目の前の少女。男女を問わず、階段を行き来していた者たちの大半が動きを止め、彼女を見ている。男子は羨望の眼差し。女子は、それに嫉妬が加わる。
「ちょうどいいところで会えましたね。ちょっぴり運命的です」
 星領学園二年、崩月《ほうづき》夕乃は、おっとりした笑顔を浮かべてそう言った。
 辞書で「大和撫子《やまとなでしこ》の意味を引いたら「崩月夕乃のこと」と書いてある、とは男子たちの彼女に対する評価。清楚《せいそ》で慎《つつし》み深く、いつも穏《おだ》やかに微笑み、それでいて堅苦しさのない女性。容姿と性格が完壁な調和を見せる夕乃は男子の憧れの的であり、彼女の写真を撮るためだけに他校の生徒がやってくることさえあるほどだった。
 真九郎も、その気持ちはわかる。最も意識する異性は誰かと考えたら、夕乃しかいないし、最も怖い異性は誰かと考えても、やはり夕乃だ。
 彼女は真九郎の師匠の孫娘であり、真九郎にとっては姉のような存在だった。
 昔から自分に注目が集まるのに慣れている夕乃は、その扱《あつか》いにもやはり慣れている。自分を見つめる生徒たちに向けて、絶妙な角度で首を傾げると、無言で微笑み返した。それだけで、彼女に視線を送っていた者たちは何故か満足する。彼女に反応してもらった。それでもう十分だと。
 校内において、勉強も運動も容姿も平均以上ではない真九郎の存在など、誰も意識していない。それを悔《くや》しいと思わないのは、無粋《ぶすい》な気持ちを洗い流す、彼女の清涼《せいりょう》な雰囲気のお陰《かげ》だろう。師匠の孫娘ということもあり、真九郎は彼女と接する機会が多いが、その親しげな様子を変に誤解されぬよう、周囲には「遠い親戚《しんせき》」だと説明していた。親戚というのは偽《いつわ》りでも、彼女とは八年間を同じ家で過ごした仲だ。
「真九郎さん、今日のお昼はもう済ませました?」
「まだだけど……」
「ああ、良かった」
 夕乃はホッと胸を撫で下ろし、片手に持っていた包みを真九郎に差し出す。確認するまでもなく、中身は弁当箱。
「今日はちーちゃんが幼稚園の遠足で、お弁当のおかずを作り過ぎちゃったんです。だから、真九郎さんにお裾分《すそわ》け」
「ありがとう、夕乃さん」
「いいえ」
 ニッコリ微笑んだ夕乃は、何故かそこで目を瞬《まばた》きした。
 そして、上目遣《うわめづか》いで真九郎に迫る。
「真九郎さん」
「はい」
「大丈夫ですか?」
「えっ、何が?」
「ちょっと元気がないみたい」
 彼女は勘《かん》が鋭い。
 紫の護衛の件でいろいろ悩んでいることを、見抜かれたようだった。
「夕乃さんに会えて、元気が出たよ」
 理由を誤魔化《ごまか》すようにそう言うと、夕乃はしばらくその顔をじっと見つめていたが、真九郎が口を割らないと判断したのか、悲しそうに肩を落とす。
「……わたしには、話せないことなんですね」
「あ、まあ、仕事だし……」
「殿方《とのがた》は、いつも仕事を理由に女を蔑《ないがし》ろにするのです」
「いや、そんな大袈裟《おおげさ》な……」
「悲しいです。わたしはこんなに心を開いているのに、真九郎さんは隠し事ばかりで、心にガッチリ鍵《かぎ》かけて、おまえなんかに話してやらねーよーって感じの反抗期。あんまり悲しいから、今夜は冷やし中華にしてしまうかも。細かく砕いた氷を入れて、この凍てついた心の痛みを家族みんなで分かち合い、そのあとでキンキンに冷えたアイスクリームをまた家族全員で……」
 真九郎は降参《こうさん》した。
「すいません。実は、慣れないボディガードを頼まれまして、その疲労が原因です」
「ボディガードって、誰を守るんです? 女性?」
「男です。オッサンです。憎《にく》たらしい感じの」
「うわ、大変そうですね」
 ハハハ、と真九郎は曖昧に笑う。
 紅香からの依頼と知られれば夕乃に怒られそうなので、詳しい内容は誤魔化し通すことにした。揉め事処理屋という仕事に、夕乃は理解を示してくれているのだが、柔沢紅香に関してだけは別。「あれは悪い大人の見本です。ああなってはいけませんよ?」と、何度となく注意されていた。未だ真九郎と紅香に付き合いがあることも、あまり快《こころよ》く思ってはいない。
「真九郎さん、仕事に励《はげ》むのは良いことですけど、体には気をつけるんですよ?」
「まあ、それなりに……」
「お返事は?」
「はい」
 よろしい、と夕乃はニッコリ微笑み、手を伸ぽして真九郎の制服の乱れを直す。そしてパンパンと胸の辺《あた》りを叩き、満足げに頷いた。
「それでは、また」
 軽く一礼してから、夕乃は階段を上がって行く。決して慌てない、流れるような足運び。窓からの風が彼女の黒髪を揺らし、通りすぎる生徒たちが何人も振り返って見ていた。中には、携帯電話で写真を撮る者さえいる。
 夕乃の家に弟子入りしていなければ、真九郎は彼女を遠巻きに見ている男子生徒の一人でしかなかっただろう。だとすればこの現状は、幸福というべきか。
 真九郎は夕乃から渡された弁当箱を見て少し笑い、階段を下りていった。

 

 銀子がいたのは、校舎二階の端にある新聞部の部室だった。入り口に『新聞部』というプレートが掛けられてはいるが、実態はまるで違う。部員は銀子一人で、もちろん部長も彼女。部室は、彼女一人で独占状態。以前からこうだったわけではなく、かつてここに所属していた部員たちは全員、銀子に脅《おど》され、追い出されてしまったのだ。個人情報の売買は、情報屋の基本のようなもの。彼女がその気になれば、そこらの学生の秘密などいくらでも暴《あば》ける。それは教師も例外ではなく、半ば無理やりに顧問の教師も指名し、いくらかの部費さえも獲得。
 たった一人の部室、しかも程よく暖房の効《き》いた環境でノートパソコンを操作していた銀子は、扉を開けて入ってきた真九郎に一度だけ目をやり、すぐに画面に戻す。
「ノックくらいして」
「自分の部屋みたいだな」
「ここは、あたしの部屋よ。知らなかった?」
 機嫌を損《そこ》ねる気はないので、真九郎は扉を軽くノック。
「どうぞ」
 承諾を得た真九郎は扉を閉め、椅子を一つ引き寄せると、銀子の背中が見える位置に移動して腰を下ろした。窓の外は校舎裏で、そこに立ち並ぶ木々の紅葉が季節を感じさせる。校庭の喧騒もほとんど聞こえない。部室の中は、時間が止まったような静寂さ。かつて新聞部が使用していた機材は残っておらず、テーブルと椅子ぷいくつかあるのみ。
 真九郎が膝《ひざ》の上で包みを開いたところで、画面を見たまま銀子が言った。
「やらしい」
「何が?」
「それ、崩月先輩からもらったんでしょ?」
「……よくわかったな」
「やらしい」
「だから何が?」
「あたし、あの人嫌い」
 紅香と夕乃のことを、銀子は嫌っている。二人の共通点は何かと言えば、やはりあれしかない。真九郎が今のような生活を始めたのは、始めることが可能な状態になったのは、あの二人のおかげであると言っていい。それが、銀子には気に食わないのだろう。
 真九郎が揉め事処理屋をやると決めたとき、銀子は今まで見せたことも無いほど険しい顔で言ったものだ。
「あんた、昔、なんて言ったか覚えてる? 大きくなったら銀子ちゃんと一緒にラーメン屋をやりたいって、そう言ったのよ?その程度が、あんたの器。あんたの限界。それが、揉め事処理屋? あんたみたいなのが、人を殴ったり蹴《け》ったり傷つけたり、誰かに殴られたり蹴られたり傷つけられたりしながら、そんなことをしながら生きていけると思うの?本当に、そんな生き方ができると思うの?思うなら、あんたバカよ。本物のバカ。救いがたいバカ。あんたなんかもう、勝手に何処にでも行って勝手に死ね。死んでしまえ!」
 そのとき真九郎は、何も反論できなかった。
 何と言ったらいいのか、わからなかったからだ。
 今でも、それはわからない。
 真九郎は弁当に入っていた梅干《うめぽし》を口に入れ、安物ではない酸《す》っぱさに顔をしかめた。里芋《さといも》の煮《に》っ転《ころ》がしは、懐《なつ》かしい崩月家の味。蜂蜜《はちみつ》で煮たカボチャの味も同じ。母親の味はもう忘れてしまったけれど、崩月家の味はさすがに忘れない。
 テーブルの上には、今日の新聞がほとんど全紙揃って置かれていた。職業柄、銀子はあらゆるメディアに目を通す。彼女が言うには、一応でも目を通すことが重要らしい。大事な情報は必ず記憶に残る、という銀子の主張は、学年でも十番以内という学業の成績が証明しているとも言えるだろう。
 真九郎は適当な新聞を手に取った。この部屋は静かで過ごしやすく、新聞も揃っているので、真九郎はたまにお邪魔させてもらっている。銀子の機嫌が悪いときは追い出されてしまらが、基本的に見逃してくれるのは付き合いの長さからか。
 プロ野球の記事などを見ながら新聞をめくっていくと、妊婦《にんぷ》ばかりを狙って暴行を加えていた通り魔が、ようやく逮捕された記事が目に入った。犯人は十代前半の少年たち。罪の意識は
皆無《かいむ》のようで、「でかい腹が目障《めざわ》り」という理由で襲っていたらしい。「これは教育制度の弊害《へいがい》であり、すぐに改革するべき」と語る政治家と、「型破りの思想は若さの可能性。それを潰《つぶ》すべきではない」と反論する別の政治家の議論が載り、「うちの息子も社会の被害者」という少年たちの母親のコメントが載り、最後には「多様な価値観があるのが現代社会の特徴」という評論家のコメントで締め括《くく》られていた。
 真九郎には、妊婦を襲うという発想はまったく理解できないが、それを今にも許容しかねない社会のあり方も、やはり理解できなかった。
「銀子、正気とか正常って何だと思う?」
「正気とは何か、正常とは何か、それを考え続ける意志のことよ」
 わかりきったことを訊くな、とでも言いたそうな口調だったが、反応してくれるだけましだ。機嫌が悪いときは、彼女は普通に無視する。もう少しだけ対外的なガードを下げればきっと友達もできるだろうに、と真九郎は思うのだが、自分も特に親しい友人がいるわけではない現状を見ると、お互い様かもしれない。銀子はクラスで浮いているし、真九郎はクラスで影が薄い。だからこうして二人で会っていても、周りは特に意識もしないのだろう。
 どこかの科学者が正気測定機でも発明しないかな、などと真九郎がくだらないことを考えていると、画面を向いたまま銀子が言った。
「あんたからの依頼、まだ時間がかかるわ」
「さすがに九鳳院は手強《てごわ》いか?」
「手強い」
 銀子が素直に評価するのだから、本当にそうなのだろう。
 天下の大財閥ともなれば、多岐《たき》にわたる防御法《ぽうぎょほう》を発達させているということか。
「麟麟塚《きりんづか》や皇牙宮《こうがのみや》もそうだけど、この手の財閥はみんな手強いのよ。まさに権力の巣窟《そうくつ》。極秘《ごくひ》事項だらけ。例えば、あんた、九鳳院家の当主の顔を見たことある?」
「いや、見たことない。……新聞やテレビでも、見た記憶がないような気がするな」
「どうしてかわかる?」
「いや」
「本当の権力者ってのは、決して表には出ないからよ」
 質問。この国で一番偉い人は誰ですか?
 答え。総理大臣。
 そんなことを本気で信じているのは、小学生くらいだろう。
 では本当に偉い人は誰か?
 答えは「わからない」だ。誰だかわからない。どこのどんな奴だかわからない。だからこそ力を持ち、偉いのだ。本当に力があり、偉い存在は、詳しいことはみんなに知られない。それは、天から下界を見守っているという神様と同じ。
 まさに雲の上の存在ってわけか……。
 今、自分が九鳳院家の娘と同居していると知ったら、銀子はどんな顔をするだろう?
 真九郎はそんなことを考えたが、さすがに実行するわけにもいかない。
「それと、あんた、気をつけた方がいいわよ」
「何を?」
「悪宇《あくう》商会って、聞いたことあるでしょ?」
「ああ、例の……」
 悪宇商会とは、いわゆる人材|派遣《はけん》会社。ただし、裏世界に本拠地を置く、一般的な常識とはかけ離れた人材を扱う会社である。戦闘屋、殺し屋、呪《のろ》い屋、お払い屋、逃がし屋、護衛屋など様々な人材が所属する組織。
「金|次第《しだい》で、どんな犯罪にも加担《かたん》する組織だから。あんた程度でも、邪魔すれば潰される」
「そんなのと張り合う気はないね」
 国際的な犯罪にも関わる悪宇商会を大企業に例《たと》えるなら、真九郎は下町の個人商店。今まで真九郎がこなしてきた仕事といえぽ、下着|泥棒《どうぽう》やストーカーを捕まえたり、騒音被害で苦しむ住人の依頼で暴走族と乱闘したりという程度のもので、悪宇商会と対決するような状況があるとは思えない。
「俺のことはいいとして、おまえの方こそ気をつけろよ。情報屋が消されるなんてのは、そう珍しいことでもないんだ」
 銀子が基本的にネットでしか情報を売買しないのは、なるぺく危険を回避するため。銀子の祖父は腕っ節《ぷし》にも自信のある人物だったが、銀子は大の運動オンチ。小学校の運動会のときなど、たまたま病気で休んだ日に出場する種目を勝手に障害物竸走に決められてしまい、当日は一位と三分近い大差をつけたビリでゴール。何度も転倒しながら走りきった銀子に、真九郎は拍手したが、お返しに引っ叩《ぱた》かれた。負けず嫌いの銀子は、それ以来、一度もその種の行事には参加していない。
「もし何かトラブルがあったら、俺に言ってくれ。最優先で引き受ける」
「何割引き?」
「タダでいい、銀子なら」
 一瞬、キーを打つ銀子の手が止まり、やがて緩やかに再開。
「……あんた、やっぱりバカよ」
 おまえにバカと言われるのは嫌じゃないよ、昔から。
 真九郎はそう口にしようとしたが、やめておいた。
 きっとまた、バカと言われるだろうから。

 

 放課後、真九郎が下駄箱に向かった頃にはもう、校舎の中は人気《ひとけ》が薄れていた。新聞部に寄り道し、昼休みに読み残した新聞に目を通してきたせいだ。新聞を読んでわかるのは、世間にはトラブルが溢れているということ。真九郎にとっては仕事があるわけで、喜ばしいことなのかもしれない。他人の不幸が飯の種《たね》。揉め事処理屋など、あまり誉《ほ》められた商売ではないのだろう。銀子が怒るのも、無理はないか。
 靴を履《は》き替え校舎を出た真九郎は、夕陽《ゆうひ》の赤さに目を細める。校庭では、サッカー部の部員たちが活発に声を上げ、走り回っていた。寒空の下、みんなでスポーツ。その健全な姿をしばらく眺め、真九郎は青春エネルギーを補充。ああ自分は高校生にまでなったのだ、と改めて確認。よく生きたものだ、と少しだけ自分を賞賛。そして、校門の方へと向かった。
 欠伸を漏らして步きながら、ここしばらくの出来事を思い返してみる。
 一人暮らしの気楽な空間に乱入してきた紫という存在は、真九郎が当初|危惧《きぐ》していたほど生活の障害にはならなかった。紫には、「一人で五月雨荘から出るな」と厳命。そのかわりに、真九郎が学校から帰ってくると彼女は散步を要求するが、それ以外はおとなしく五月雨荘の敷地内にいる。闇絵を真似て木に登ったり、環から借りたマンガを読んだり、TVゲームをしたりしているらしい。真九郎があのくらい幼い頃は、たいてい外で遊んでいたもので、それを考えれば紫はおとなしい方なのだろう。
 いや、そういうのとも違うか……。
 風に舞う落ち葉を見ながら、真九郎は思う。
 紫の様子は、まるで限られた空間でくつろぐことに慣れているかのようだった。紫が持参してきた服は全て男物で、女物は初対面のときに着ていたドレスだけ。その点からも紫の活発な気性がわかるのだが、静かな場所では、その静けさを楽しむような大人びた余裕が彼女にはある。それは持って生まれたものなのか、それとも後から身につけたものなのか。学校に行ってないという彼女の家庭環境、あるいは九鳳院家の教育方針に関係しているのかもしれない。
 普通の子供と全然変わらないな、と実感することもある。
 例えば食べ物。
 期待していないのか、何を出されても紫は文句を言わず食べるが、たまに抗議する。
「真九郎、わたしはピーマンが嫌いだ」
「俺は好き嫌いをする子供が嫌いだ」
 この件は、わからないくらい細かく刻むことでお互いに妥協。
 例えば夜中のトイレ。
 深夜、寝ている真九郎の顔を紫はペチペチと叩いて起こし、偉そうに命令する。
「トイレに付き合え」
 五月雨荘の廊下は蛍光灯が数本あるだけで、昼間でも薄暗く、深夜になればもっと暗いので、子供が怖がるのも無理はない。
「違うぞ。別に怖いわけではない。それとは関係ない。全然関係ない。勘繰《かんぐ》るな」
 必死に言い訳する紫に、真九郎は自分の上着を羽織《はお》らせ、トイレに連れて行った。そして彼女が用を足す間、廊下で待つ。寒い廊下で眠気を堪えながら、自分にも覚えのあることだなあと、真九郎は少し懐かしく感じたりもした。
 まあ、紫との生活はそれなりに上手くやれているだろう。
 問題は、彼女を狙う存在。
 人をさらうのも殺すのも、手段はいくらでもある。油断はできない。
 真九郎は校門を通り抜け、通学路を步きながら空を見た。さっきよりも、雲の色が濁《にご》っているようだった。
「これは降るかな……」
「うむ。天気予報でも夕方から雨だったぞ」
 聞き覚えのある幼い声。
 真九郎が慌ててそちらへ振り向くと、そこには紫が立っていた。驚きで声も出ない真九郎の前で、紫は「ふむ、これが学校か」と好奇心を満面に表し、校舎を見上げている。いつものように、少年のようなジャンパーに半ズボン姿っ一応は変装のつもりなのか、頭には野球帽を被《かぶ》っていた。
「……お、おまえ、どうやってここまで来た!」
 一度深呼吸してから、真九郎はようやくそう言えた。
 この星領学園の場所を、彼女に教えた覚えはないのだ。
 その疑問に、紫は平然と答える。
「環に送ってもらった」
 紫が言うには、学校に興味があるという話を環にしたところ、「じゃあ連れてったげる」と環がここまで連れてきたらしい。紫の護衛の件は環に説明していないし、本人は善意のつもりかもしれないが、何という迷惑か。
「おまえ、五月雨荘からは出るなってあれほど……」
「一人で出るな、とは言われたな。だから、同行者がいれぽ良いのだろ?」
「それは……」
「環は信用できる女だと思うが、違うのか?」
「いや、違わないけど……」
「真九郎、さっそく中を案内しろ。教室を見たい」
「……ダメに決まってるだろ」
 真九郎は周囲に目をやったが、今のところ、こちらに注目している者はいなかった。時間が遅く、生徒の数が少ないのが幸いか。
 「それで、環さんは?」
「映画に行くと言っていた。ぽるの映画、とかいうのを観るそうだ」
 あのエロ女……。
 環の趣味は、マンガ全般と、アダルト物を含むC級映画の鑑賞。部屋にはコミックスと、怪《あや》しげな輸入物のビデオ、そしてDVDが散乱しているのだ。あまりにも汚いので、真九郎は何度かその片付けを手伝ったこともある。目のやり場に困るような代物《しろもの》ぼかりで、あまり思い出
したくない記憶だった。
 環は、自分の用事のついでに紫を連れて来たのだろう。迷惑以外の何ものでもないが、唯一《ゆいいつ》の救いは武藤環であるということ。人格には問題あれど、格闘家としての環の腕は尊敬に値《あたい》する。彼女が紫と同行したのなら、その安全度は真九郎以上。それでもやはり、いつまでもこんなところをウロウロしているのはよろしくない。
 帰ったら文句言ってやる。しばらく米も貸さない。そう心に誓《ちか》いながら、真九郎は紫を急《せ》かして步き出す。紫はなおも学校を見学したいと主張したが、真九郎が聞く耳を持たない様子なのを見て、渋々《しぶしぶ》ながらも従った。二人は無言で駅まで行き、無言で電車に乗る。座席が空いていたので腰を下ろすと、紫はすぐに後ろを向き、窓の外の景色を眺めていた。その横顔を見る限り、機嫌は直ったらしい。気持ちの切り替えが早いのは助かる。
「おまえ、もう学校に来たりするなよ?俺の心労を増やすようなことは……」
「電車は便利だが、椅子の座り心地がイマイチだな」
 真九郎の小言を聞き流し、景色を楽しむ紫。
 反省の色が見えないので、もっと厳《きび》しいことを言うべきか真九郎が迷っていると、隣の車両から騒がしい声が聞こえてきた。通路越しに目を凝《こ》らすと、発生源はシルバーシートの近く。座席に腰かけている老婆に、若者三人が絡《から》んでいるところだった。電車に乗り、並んで座れる座席を探したが見つからず、シルバーシートにいる老婆を立たせればちょうど三人分の座席が空く、ということらしい。自分勝手な思考は、まさに現代の若者か。
 若者たちの大声が車内に響く。
「バァちゃんさ、俺ら疲れてるわけよ! 座りたいわけよ!」
「早く立てよ、ババア! てめえ、思いやりってもんがねーのか!」
「俺らキレやすい若者ってやつだからさあ、あんま鈍《にぶ》いと殺すよ、マジで」
 老婆の顔は、すっかり青ざめていた。慌てて立とうとするが、足腰が弱いらしく、杖《つえ》を突きながらの動きはどうしても遅い。焦《じ》れた若者の一人が、老婆の服を掴《つか》んで引っ張った。床に尻餅《しりもち》をつく老婆を見て、若者たちはギャハハと笑い、側に落ちていた老婆の杖を蹴り飛ぽす。そしてまた、ギャハハと笑った。
 非難の目を向ける乗客もいるが、若者たちに睨まれるとすぐに視線を外す。へたに関われば損《そん》をするだけ。ケンカになれぽ両成敗《りようせいばい》となり、前科がつく場合すらあるのだ。腹立たしいことでも、目をつぶる。損得勘定《そんとくかんじょう》のできる乗客たちは、倒れた老婆に手を貸そうとさえしない。
 そんなものだ、と真九郎は思う。
 正論は、心の中で完結する。正義は、現実には存在しない。
 だから揉め事処理屋などがやっていけるのだ。
 通学に使う電車であり、真九郎としては目立ちたくないが、これを見過ごすような教育は受けていない。何とか穏便《おんびん》に済まそう、と席を立った真九郎の視界を、小さな存在が横切った。若者たちに向かって駆け出していくのは、隣にいたはずの紫。真九郎が止める間もなく、紫は車内に落ちていた空き缶を拾うと、若者の一人を狙って投げる。それは的を外れ、空き缶は窓に当たったが、異変に気づいた若者たちは小さな犯人に目を向けた。
「……何だ、このガキは?」
 三人の険悪な視線を浴びながらも、紫は怯《ひる》まない。
 腰に手を当て、堂々と述べた。
「恥《はじ》を知れ!」
 とてもよく響く、命令や叱責《しっせき》に適した声。そして、自分の意思を伝えるのに適した声。これもまた、九鳳院の血なのか。
 鼻白《はなじろ》む若者たちに、紫は続ける。
「貴様ら、その歳まで何を学んできた! 集団で弱者を痛めつけるなど、人として下の下、最低の行為だぞ!」
 彼女のまっすぐな意見に真九郎は感心したが、若者たちには届かなかったらしい。ガキが生意気にも説教してやがる、という顔。
「ギャーギャーうるせえガキだな」
「殴りてー。超殴りてー」
「おい、このガキの保護者はいるか! 出て来い!」
 若者の怒声《どせい》が車内に響き、真九郎は現場に急行。
 そして、事態を解決する最良の策を選択。
「俺が保護者です、すいませんでした!」
 真九郎は紫の後頭部に手をやり、そのまま自分の頭と一緒に下げさせた。
「どうか勘弁《かんぺん》してやってください。こいつ、まだ小さくて、物事がわかってないんです」 失礼な、と反論しそうになる紫の口を塞《ふさ》ぎ、真九郎は頭を下げ続ける。真九郎は、仕事以外ではなるべく暴力|沙汰《ざた》に関わる気はなかった。プロは、仕事以外でその力を使うべきではないと思うのが理由の一つ。もう一つの理由は、精神的なもの。
「本当に、すいません。俺からきつく言い聞かせておきますから、勘弁してください」
 愛想《あいそ》笑いを浮かべながら、真九郎はペコペコと頭を下げた。自分の両足が微《かす》かに震えているのがわかる。止められない。どうしても止められない。
「腰抜け」
 震える足を見て軽蔑《けいべつ》するように笑い、若者の一人が真九郎の顔に疾《たん》を吐きつける。ヤニ臭い疾が顔に貼《は》りつき、それでも愛想笑いを消さない真九郎に、残りの二人も疾を吐きつけようとしたが、電車が速度を落としたのを感じてやめた。目的地の駅に着いたらしい。
「こいつ、すっげえヘタレ」
 真九郎の頭を軽く小突《こづ》き、若者たちはギャハハと笑いながら電車を降りていった。その姿が見えなくなり、扉が閉まり、電車が動き出してから、真九郎はようやく紫から手を放す。
「おまえさ、あんまり無茶しないでくれよ。もう少し考えて……」
「正しいことを行うのに、何を考える必要がある! あんな卑怯《ひきょう》者どもにへいこらしおって! えーい腹立たしい!」
「そんな単純なもんじゃ……」
「それに、さっきのあれは何だ!」
「あれ?」
「おまえの、不細工《ぷさいく》な笑顔だ!」
 紫に冷ややかな眼差しで見つめられ、真九郎は気圧《けお》されたように口を閉ざす。
 彼女が言っているのは、愛想笑いのことか。
 撫然《ぷぜん》とした表情で鼻から息を吐き、紫は目を細めた。
「おまえなりの処世術なのかもしれんが、わたしはそういうのは嫌いだ。相手の機嫌を取るために笑うなど、グノコッチョーである。いいか、真九郎?楽しいから笑うのだ。嬉しいから笑うのだ。おまえの不細工な笑顔は、物事と真剣に向き合ってない証拠。逃げている証拠だ」
 好きに言ってくれるな、と真九郎は苦笑する。
 真九郎は昔から愛想笑いが得意な方であり、それで幾度《いくど》と無くトラブルを回避してきた。これは弱者の習性のようなもの。今でも得意だ。その理由は、あまり深く考えたくない。
 正直な紫。正直過ぎて怖い。正直過ぎて迷惑。
 でも、そんなに不愉快ではなかった。
 これほど的確に指摘されたのは、幼なじみ以外では初めてなのに。
 さっきの、無謀ですらある紫の行動が、何となく気に入ったからだろうか。
 あんなこと、自分にはできない。
 沈黙する真九郎に、紫は手を差し出した。
「使え」
 小さな手の平の上には、見事な刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》された白いハンカチ。疾で汚れた顔をこれで拭《ふ》け、ということだろう。高級品に見えるので躊躇《ちゅうちょ》していると、紫は焦れた様子でハンカチを真九郎の胸に押しつける。
「使用人が汚いと、わたしの品位まで疑われるではないか」
 なるほど、と思いながら、真九郎は礼を言ってハンカチを受け取った。そして一つわかった。紫に何を言われてもあまり腹が立たないのは、裏がないからだ。余分な要素がない。彼女の言葉は、そのままの意味で使われている。一片のウソさえ混じってはいない。その率直《そっちょく》さが、心地良いのだ。
 自分は愛想笑いを多用するくせに、他人には率直さを期待するわけか……。
 その身勝手さにまた苦笑しながら顔を拭いていると、老婆から控え目に礼を言われた。自分は何もしてないので礼なら紫に、と真九郎が言うと、老婆は搬《しわ》の深い顔に優しい笑みを浮かべ、紫の頭を撫でる。紫は、満更《まんざら》でもなさそうに笑っていた。
 その二人の様子を見て、真九郎はようやく気づく。
 自分は手を跳ね除けられたのに、環や酒屋の店主、そしてこの老婆が触れても紫が怒らない理由。老婆の笑顔が答えだ。環も店主も老婆も、とても自然に、優しい笑みを浮かべていた。しかし、真九郎は紫と初対面のとき、愛想笑いを浮かべて接したのだ。その欺隔《ぎまん》を、紫は嫌ったのだろう。自分が子供の立場でも、そんな奴には触れられたくないに違いない。
 まったくもって、子供は正直ということだ。
 紫と老婆は並んで座席に腰を下ろし、真九郎はその近くの吊《つ》り革《かわ》に掴まった。
 そして、自分の顔に手で触れる。
 自分の笑顔は、そんなに不細工なのだろうか。偽物《にせもの》なのだろうか。
 どうして自然に笑えないのか。ちゃんと笑えていると思うときも、あるのに。
 笑えていても、そう意識した瞬間、ぎこちないものへと変化してしまうということか。
 真九郎は思う。
 自分には、何か欠けているのかもしれない。
 全てを失ったと感じた、あの頃から。
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